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17年間の夢の終焉

1997年9月頃 『それは、四畳半ほどの物置部屋から始まった。江の島で知られる神奈川県藤沢市にある市立T小学校の一階。
 四年前のことだ。三人の教師がここを喫煙場所に使い始めた。煙草を吸わない教師も輪に加わった。メンバー四人。いずれも現場で限界を感じていた。
 一番の若手がS。「子ども一人ひとりの能力差はあまりに大きい。しかし、今の教室でそれぞれに合った指導をすることは不可能に近い」。三月、担任を終えるといつも無力感にさいなまれる。
 卒業生が暴力団にかかわっていると聞いて落ち込んだこともある。「学力が低い子どもは何にも自信が持てない。だから人生を切り開いていけない。学力も大事だが、何でもいい、『これが得意なんだ』っていう実感を小学校で味わっていれば、違う生き方ができたんじゃないか」
 メンバー最年長のHの言葉。「今は勉強ができないと、人格までだめだと言われちまうんだな。家に帰っても学校の評価がついて回ってさ、ずっと『教育』に囲まれてる。そりゃ、やってらんないよ」
 ある日、Hが一冊の本を持ち込んだ。「チャータースクール」。アメリカで生まれた新しい公立学校。親や市民、教師が独自のカリキュラムで主体的に運営する。そこでは子どもの個性、能力の差がしっかりと認められていた。
 四人は、残りの教員人生を日本版チャータースクール実現にかけることで一致した。一九九七年九月、「湘南に新しい公立学校を創り出す会」を設立。会長には「若いやつがやれ」とSが指名された』。(一部固有名詞は変更しました)(神戸新聞2001年1月3日)
10月31日  第1回湘南に新しい公立学校を創り出す会の定例会には、30人近い現職の小学校教員が集まった。午後6時からの開会なので、夕食は各自が持参することにした。事前に100人ぐらいの教員に声をかけた。そのうちの三分の一のひとが、興味本位だったかもしれないが、週末金曜日に、酒を飲みにも行かないで、まじめな勉強会に集まったのだから、湘南の底力を感じた。
 もっとも、握り飯やおしんこに加えて、ビールや缶チューハイを片手に持つひとがほとんどでした。
事務局「きょう、集まってもらったのは、既存の公立学校に変わる新しい公立学校を創ろうという考えに賛同してもらいたかったからです」
参加者「公立学校を創ることなんて、一介の教員にできることなんですか」
事務局「いまの日本の法律制度では不可能です」
参加者「それじゃ、どうやって創ろうとしているんでしょうか」
事務局「アメリカで1991年から新しい法律、チャータースクール法というのができました。その法律を日本でも作って、新しい公立学校を創ろうと考えているのです」
参加者「チータースクールって何ですか?」
事務局「チーターじゃありません。それじゃ、ペットスクールになってしまいます。チャーターです」
参加者「チャータースクールね。聞いたことないなぁ」
 集まった参加者は、だれもチャータースクールを知らなかった。わたしたちは、チャータースクールの解説から始めなければならなかった。
11月 学校関係者ばかりでは、思考が煮詰まると判断し、定例会の参加者に「学校関係者以外を連れてくるように」という依頼をした。
12月 活動のなかみをまとめた「いっしょにやりましょう」を発行。
1998年1月 公立学校に「学校選択の自由」を認めることを決めた。
自由の森学園の教師と元保護者の両方にインタビューした。
1月11日、シンナーを吸引した19歳の少年が5歳の女児を刺殺した。
1月14日、川崎市で中学3年生の男子が母親を包丁で刺殺した。
1月22日、日本体育大学スケート部と帝京大学ラグビー部が無期限の活動停止(対外試合停止)。ともに部員の婦女暴行事件が原因だった。
1月28日、栃木で中学1年生の男子が26歳の女性教諭を学校内でナイフで刺殺した。
2月18日 藤沢市教育委員会に挨拶に行く。
4月28日 文部科学省生涯学習振興課課長の寺脇研氏(当時)から高谷小学校に電話。取り次いだ管理職に「課長は毎月、会報を楽しみにしていると、伝えてください」と言付けを頼んだ。
「お前たち、直接、霞ヶ関と連絡を取り合ってるの」
びっくりしながら、電話の内容を教えてくれた。
6月20日 将来、チャータースクールとして開校を目指す学校を「湘南小学校」と命名した。
8月27日 藤沢市民会館の和室を一日12時間ずつ借りて。「企画書」「設立趣意書」「署名用紙」などの検討と作成を行う。台風と地震に見舞われた嵐の3日間だった。
10月27日 読売新聞にチャータースクールが紹介される。中西茂記者。
1999年3月2日 自民党文教部会教育改革推進本部チャータースクールワーキング研究部会にて「湘南に新しい公立学校を創り出す会」のことと「湘南小学校」について説明をする。
3月26日 取材でアメリカに行ってきたメンバーによるチャータースクールの報告。9校(チャータースクール8校、マグネットスクール1校)を実際に見てきて。
5月16日 第1回シンポジウム…教育評論家・大沼安史氏を迎えて労働会館で創る会はじめてのシンポジウム。
5月21日 湘南小学校のコンセプトを「センセイ、つぎ何やるの?から、わたし、これやりたいへ」に決定。
7月22日 ヒアリング…自民党文教部会教育改革推進本部チャータースクール部会にて公募型研究開発校制度を検討するにあたって意見を述べた。
8月24日 テストマッチ開校…逗子市野外活動センター。参加者は6歳から13歳まで。スタッフは約30人。合計60人前後で実施。見学者は5日間で合計40人前後を数えた。
10月17日 第2回シンポジウム…社会学者・宮台真司氏を迎えて湘南台文化センターで開催した。
2000年2月25日 NPO法人設立総会。
5月13日 第3回シンポジウム…「もしも学校が選べたら」品川区若月教育長を迎えて藤沢市民会館で開催した。
5月24日 神奈川県よりNPO法人の承認を受ける。
6月17日 夢キャン(夢の湘南小学校サマーキャンパス)開校。
11月19日 NHKスペシャル「世紀を越えて」未来世代・市民が創る公立学校で活動が紹介された。
2001年3月20日 日本型チャータースクール推進センター設立。
3月31日 第4回シンポジウム…金子郁容氏と鵜浦裕氏を迎えて産業センターで開催した。
4月14日 佐々木洋平著「市民が創る公立学校」(コモンズ)刊行。
11月4日 サドベリーバレー学習会…事務長のミムジーさんを藤沢市労働会館に迎えて開催した。
2002年5月4日 ミネソタ「シティ・アカデミー(全米初のチャータースクール)」校長のマイロ・カッター女史にインタビュー。
11月4日 第5回シンポジウム…宮台真司氏を迎えて「学校を創ろう」というテーマで開催した。
2003年1月15日 教育特区へ「湘南憧学校」を提案した。
2004年4月1日 平日開校のフリースクール「湘南憧学校」開校。2007年3月まで。
12月 鎌倉市内の公立小学校で、湘南憧学校に通っている日数を出席扱いにすると決まった。
2007年2月24日 定例会で、年度末での湘南憧学校を決めた。
湘南憧学校終了を決めた定例会後のコメント

……ここから

12月から検討を重ねてきた、活動の方向性について、次の通り、確認がなされました。

 わたしたちは1997年から、市民の力で新しい公立学校の設立を目指す活動を続けてきました。
 日本の教育行政は、公立も私立もすべてを管轄しています。そこには、教育内容はもちろんのこと、教職員の給与や人事、そして、もっとも基本になる学校を設立する権利が含まれています。
 諸外国に目を向ければ、市民が公立学校の設立を行政にはたらきかけて実現する仕組みがあります。その仕組みを日本国内にも実現できないものかと考えました。
 しかし、それまで市民が公立学校を創る権利がなかった日本社会では、わたしたちの願いや活動はなかなか理解が得られないものでした。そこで、1999年から、まなびの主人公をこどもたちにした新しい学校を、夏休みや週末を使って、実験的に開校してきました。「どんな学校を創りたいのか」という疑問への答えを築き上げてきたのです。

 2000年には神奈川県から特定非営利活動法人としての認証を受け、それまでの任意団体から理事会を中心に社会的使命を担う法人組織へと活動を発展させました。
 この間、市民が創る公立学校を主たるテーマにしたシンポジウムを複数回開催し、一般の方々への啓蒙活動を行いました。また、藤沢市・神奈川県・文部科学省・国政政党へもはたらきかけを持続しました。
 そして、それまでの会費・事業収益などを資金にして、2004年から平日にこどもたちのための学校「湘南憧学校」を開校しました。これまでの3年間、毎年6人程度のこどもたちが湘南憧学校で、自分にあったまなびを構築してきました。この間、教育学や社会学を専攻する大学生や起業家を目指す社会人の方にも興味をもたれ、毎年多くの見学者を迎えました。また、就学前のこどもをもつ保護者の方も見学に来られました。

 湘南憧学校は、いわゆる不登校のこどもを対象にした学校ではありません。学校のビジョンに賛同するこどもと保護者ならば、入学できます。しかし、ビジョンに賛同して、公立学校を辞めてまで入学を希望するこどもと保護者は多くはありませんでした。また、官民で助成金や補助金が出されている不登校のこどものためのフリースクールとは違い、運営費をすべて自力でまかなう必要がありました。会場の賃料、教員への給与など、年間で相当額の費用を毎年捻出してきましたが、3年目を終えるにあたり、残念ながら次年度の予算の見通しが立たないことが判明しました。

 そこで、法人が運営する湘南憧学校は3月をもって終了します。
 いまも通い、次年度を期待するこどもたちのために、法人の正会員のひとりが中心になって個人経営のかたちのフリースクールとして存続することを決めました。これまでになかった教育相談体制の充実や、地域コミュニティとの連携など、新しいプランが、すでに検討されています。

 法人の事業から、湘南憧学校を終了させることにともない、わたしたちの今後の活動の見通しを検討してきました。
 まなびの主人公をこどもたちにしたいという願いで、湘南憧学校を開校することはできました。しかし、日本社会に市民が公立学校を設立できる仕組みを実現させることは、まだできていません。湘南憧学校の終了にともない、まだ実現できていない市民が公立学校を設立できる仕組み作りに向けて、新たな戦略で立ち向かうのか、湘南憧学校の終了を区切りとして、10年間におよぶ活動にピリオドを打つのかなど、内容的にシビアな検討を行いました。

 その結果、いまの公立学校の問題点を明らかにしたり、逆に公教育に新しいアイデアを吹き込みながら、メンバー相互の情報交換を行い続けていくことが確認されました。また、フリースクールへの公的な助成についても、政策提言や関係機関へのはたらきかけなどを積極的に行っていくことになりました。
 これまでの活動から、地方の小さな市民団体が、法律の改正が必要な活動を維持するには、大きな政治の流れに乗らなければ困難なことを痛感しています。創り出す会を始めた頃、法人になった頃、湘南憧学校を始めた頃には、まだフリースクールの響きは新鮮で、多くの方々が興味を示してくださいました。
さまざまな理由で、一斉指導や集団への適応よりも、少人数指導や個別支援の方がのびるこどもたちがいます。そういったこどもたちに、まなびのホームベースを提供していけることにつながる活動すべてを、これからの湘南に新しい公立学校を創り出す会の活動範囲として位置づけていく予定です。

……ここまで

 こどもたちが在籍している状態での、年度末閉校は苦汁の選択だった。
 しかし、これ以上の存続は大きな財政負担を運営者個々人にかけてしまうことが予想された。

 見通しが甘かったのではないか。
 金銭的な裏づけがないままの船出だったのか。
 こどもたちのこれからをどうしてくれるんだ。

 保護者を集めた緊急の説明会では、とても厳しい意見をいただいた。
 どれもその通りだったので、頭を下げるしかなかった。

 わたしは、どこの時点で、この活動の舵取りを誤ってしまったのか。そのときからずっと考えている。いまも考えている。
 そして、それは、いま少しだけ、見えてきている。
現在の公立学校、とりわけ義務教育諸学校(おもに小学校と中学校)は、昭和の初めにできた「国民学校令」以降の大きな流れを受け継いでいます。

戊辰戦争によって、徳川幕藩体制が崩壊しました。19世紀後半の日本社会には、まだ学校と呼ばれる建物も制度もありませんでした。
せいぜい、武士のこどもたちが教養を身につけるために通う藩校があった程度です。農業や漁業を生業とするひとたちのこどもが、ある時期に強制的に通う学校は存在しませんでした。

よく「寺小屋があったじゃないか」という声を聞きます。
寺小屋は、学校とは呼べません。
なぜなら、寺小屋でこどもたちに文字や計算を教えていたのは、仕事を失った武士、つまり浪人がほとんどだったからです。このひとたちは、自分の生活のために自分の知っている知識をこどもたちに伝授したのです。
いまでいうなら、私塾に近い存在だったでしょう。
また、寺小屋は全国津々浦々にあったわけでもありません。ひとが多く集まるほんの一部にしか存在しませんでした。

明治5年の教育勅語。
有名な「邑(むら)に不学(ふがく)の戸(こ)なく」で始まる明治天皇の言葉に象徴されるように、当時の地方農村では、学びを必要としない(不学)社会が成り立っていたのです。だから、あえて明治政府は天皇の名を借りた勅語という仰々しい言い方で、それを否定(戸なく)したのです。

多くの人民(まだ明確な権力基盤ができていない段階だったので、国家という概念は形成されていませんでした)を、戦地に送るために、あるいは工場労働者として働かせるために、明治政府は学校を必要としたのです。
文字が読めなければ、上官の命令がわかりません。計算ができなければ軍艦や飛行機が操縦できません。戦死するかもしれないので、たくさん養成しないと、兵力が足りなくなるかもしれません。
明治政府にとって、学校は、徳川幕藩体制から奪取した政治権力を強固にするために必要な「装置」だったのです。

しかし、当時の薩摩と長州を主軸とする明治政府には多くの収入がありませんでした。通貨でさえ、全国では統一されていなかったのです。
だから、学校の設立や教員の雇用などは、すべて新たに設置した「県」や「市町村」という自治体に丸投げしたのです。もちろんこれらにかかる費用も。
つまり政府(文部省)は、指示や命令は出すけれど、金は出しませんでした。
これでは、地方はたまったものではありません。
自分たちのやりたいようにやらせていただく、という、当然の流れに従って、多くの特徴ある学校が全国にできました。特徴あるという言い方と異なり、はちゃめちゃななかみの学校もできました。
また、教員たちは、少しでも給料の高い学校で働くために、かんたんに勤務先を辞めたという記録が残っています。そのときに、鍋や釜を盗んで、次の学校に持っていく者もいました。文部省から備品を盗むなという命令が出たほどです。

金持ちは私学を設立しました。ただし、当時の私学は「学校」を名乗ることが禁止されていました。だから、「学院」とか「学園」という呼び方を使いました。

全国で統一された教育方針がない。教員の給与体系は地方任せ。指導のなかみも自由。教科書などありえない。
想像しただけで、初期日本の公教育は、ワイルドで、わくわくしたものだったことがわかります。
「百姓のせがれが文字を覚えてどうすんだ」
「漁師がそろばんはじいてなじょする」
「女に学問など、いらねぇ」
まだまだそういう考え方のおとなが多かった時代です。
自由な雰囲気満載の学校が誕生していても、そこに実際に通えたこどもは、あまり多くはなかったことでしょう。

この流れが大きく変わっていくのが、植民地主義です。
他国の領土を武力で占領し、その土地の資源を根こそぎ奪う暴力的なやり方です。
イギリスやポルトガル、スペインやフランス、オランダやロシアなどは、すでに当時、世界のあちこちに自国の植民地を抱えていました。
アフリカ大陸、南アメリカ大陸、そして注目されたのが東アジアでした。
清王朝が崩壊した中国大陸は、まさにヨーロッパ列強が植民地拡大のために戦いを繰り返していたのです。

1894年、明治政府は大陸に出兵し遼東半島を占領。アジアの盟主としてヨーロッパ列強に対抗することを示しました。日清戦争です。
この頃から、学校の役割が変容します。
多くの戦勝賠償金を得た明治政府は、公教育に予算を投入、全国でばらばらな教育制度を、中央集権的なものへ変えていきます。
その極みが「国民学校令」でした。
それまで、尋常小学校などと呼ばれていた初等学校や中等学校を、すべて国民学校という名前で統一したのです。

もちろん、教えるなかみも統一されました。
教員を養成する機関も作り、免許制度を導入しました。

大きな意味で、この二つの新制度は、現在も存続しています。

1904年の日露戦争。
1914年の第一次世界大戦。
1939年の第二次世界大戦。
1941年の真珠湾攻撃と太平洋戦争への突入。

植民地主義は、つねに拡大を続け、二つの原子力爆弾の投下によって、頓挫したのです。
あまりにも、多くの人民の血が流れました。戦場で死んだひとばかりではありません。戦争で死んだひとばかりではありません。侵略者に陵辱されて自殺したひとたちもたくさんいたことでしょう。

新聞やラジオなどの当時のメディアが、人民に戦争を賛美する情報しか与えなかったのは事実です。
しかし、もっと深いところでこどもたちを戦争へ駆り立てたのは、学校でした。
それほどに、教えとは強烈な印象を与え、人格に影響を与えるものなのです。

カンボジアで大虐殺を先導したポルポトは、当時の日本の学校教育制度を模倣したと言われています。多くの知識人に銃口を向けたのは少年兵士たちだったのです。

学校で学ばされたこどもたちにとっての学校とは、何だったのでしょうか。
百姓の子どもはずっと百姓。漁師の子どもはずっと漁師。それが当たり前だった時代から、学校で文字や計算を覚えれば、違う職業に就く可能性が開けたのです。住み慣れた村や町を離れて、都市部へ出て、裕福な暮らしが実現できるかもしれない。いまの自分の生活から、まったく異なる魅力的な生活へ。こどもにとって、学校は夢をかなえる魔法箱だったかもしれません。
国民学校令以降の学校に通ったこども。そこでは天皇の赤子としての教えが強調され、天皇のために生き、天皇のために死ぬことこそが、生きる道と考えるこどもが多く育ちました。当時のこどもにとって、学校は自分が存在する意義や価値を与えてくれる場所でした。
かたや夢をかなえる魔法箱、かたや存在意義を植え付ける場所。ともに、親の背中を見て、黙々と仕事を覚えるだけの日々から脱出する役割を学校が果たしていました。

戊辰戦争の終結が1868年。西南戦争が1878年。それから16年後には日清戦争へと突入し、日本社会はひたすらに軍備の拡大と軍事優先政権を基盤とした時代を1945年まで続けたのです。
隣国の将軍様や脱線した高速鉄道車両を埋めてしまう政府を「非民主的だ」などと笑えない過去が、ついこないだまでありました。

自国が米ソの冷戦の影響を受けて、東西に分断されたドイツ。戦争を主導したリーダーを公開リンチしたイタリア。同じ枢軸国でありながら、日本はアメリカの強い庇護のもと、ドイツとイタリアとは異なった戦後を歩みました。
戦勝国への賠償金や、荒廃した国土の復興などで、最貧国へと落ち込んだはずの日本社会が、戦後わずかな期間で財政を立ち直らせていったのは、アメリカ軍やアメリカ政府との関係を抜きには語れません。

朝鮮半島が南北に分かれて戦った朝鮮戦争では、日本の重工業が飛躍的に復活しました。朝鮮戦争とベトナム戦争では、アメリカ軍の兵士が戦地へ向かう前線基地としての役割を担い、多くの軍関係者が歓楽街や観光地にお金を落としていきました。
戦後の日本の公教育は、教科書のなかみや教育課程を一新しました。
しかし、全国統一の教科書を使い、全国統一の教えるなかみという国民学校の屋台骨は変わりませんでした。
そのため金太郎飴と揶揄されるように、全国どこに行っても特徴のない同じ学校教育が展開されたのです。

戦後すぐの学校に通ったこどもたちにとっての学校とは何だったのでしょうか。
当時は、生きていくのもやっとという貧しい生活がありました。そんななかで、知識を身につけ、技術を学ぶことは、金持ちになる(社会的に成功する)近道でした。いつかいまの苦しい生活から抜け出してやる。そのためには学校で多くのことを学ばなければいけない。
こどもたちは、社会的強者への切符を学校に求め、学校も成績優秀なこどもにはその切符を発行していたのでしょう。

国家権力によって兵士になるための養成機関としての学校は日本では役割を終えていました。
しかし、だれもが社会的強者になれるわけがなく、多くのこどもは「そこそこの言葉や計算」と「最低限の教養」を身につけ、生産現場の労働力と化していったのです。

最初のほころびは資本主義経済の新鋭国家であるアメリカから起こりました。行きすぎた資本主義により、貧富の格差が大きくなり、貧困層が起こす犯罪やドラッグなどの影響が都市部で顕著になりました。
裕福な家庭では、こどもを安全で安心な私立学校へ入れます。必然的に公立学校のレベルは下がり、こどもどうしの教育格差が社会問題になりました。公立学校に通っている限り、卒業後の進路に夢が期待できなくなったのです。

同じことが日本では1990年のバブル経済の崩壊前後から顕著になりました。それまで「登校拒否」と呼ばれていたこどもたちが増加し、「不登校」という表現に改まって行きます。せっかく高校に進学しても、中退して、自宅に引きこもるケースも増加しました。
不景気な社会の慢性化により、学校の役割が消失してしまったのです。
役割はなくなっても、機能は存在しているので、多くのこどもたちが学校に通う意味を考えることなく、学校に行かされるようになっていました。
役割の消失した学校でもっとも学校に適した人材は、卒業した後に教員になるという循環が発生していきます。何のための学校か、それはいずれここで自分が働くための学校だと自覚すれば、学校に通う意味が生じたからです。

もちろん大多数の学校に適さないこどもたちにとっては、苦難の時代が始まりました。学校から身を引く内的なかたち。学校を破壊する外的なかたち。表現方法は異なってもこどもたちの悲鳴がかたちになって押し寄せていた1990年代の後半。
わたしは仲間と「新しい公立学校を創ろう」としたのです。

学校を卒業しただけでは、社会的に成功する時代は終わった。
卒業した後に、自分の生き方を自分で切り開いていけるこどもの育成が必要だと感じたのです。
それまでの学校が何でもあれやれこれやれとこどもに押しつけていたやり方を批判し、ゼロの地平から一つずつ学びを積み上げていく学校を考案しました。
そして、家が貧しくても無償で通えるように、私立学校ではなく、公立学校としての設立を目指しました。

当時の日本には、市民が役所に申し込んで自分たちの公立学校を設立する法律はありませんでした。
しかし、アメリカやオランダではすでにそういう法律が実効していました。
先行する事例を日本社会でも実現することを夢見たのです。

少しずつ理解者が増えました。
それとともに、「早く学校を創ってほしい」という切実な保護者の声も増えました。
もうすぐ国会へ上程され法案が可決するかもというところで、郵便局の民営化という大波にさらわれてしまいました。
制度の構築をしないと、新しい公立学校はできません。
しかし、いまこのときに苦しんでいるこどもたちをそのままにしていいのかという疑問に応じる必要がありました。
湘南小学校。フリースクールとしての湘南小学校は、そんななかでの開校でした。

優秀な教員スタッフと、深い理解のある大家さんに恵まれて、湘南小学校は教育的には大きな成功をおさめました。
しかし、残念ながら財政的な裏付けがなかったので、制度の構築を前に破綻し、閉校の決断をしました。

なぜ新しい公立学校が創れないのか。
なぜ法人としての活動を終了するのか。

全財産を投げ出して、さらにあちこちに借金をして、夢の学校を創ろう。そこまでの意欲はありませんでした。というか、そういう方向性での改革を目指していたわけではありません。
不登校のこどもたちや、いまの公教育に不信感を抱く親たちは、学校以外の選択肢を選ぶことが可能になりました。授業料の負担という壁はあります。それでも、親が懸命に働けば、納得するかたちの教育をこどもに与えられるようになってきました。
つまり、わたしが新しい公立学校を創って受け入れようとしたこどもたちの「受け皿」が多くのひとたちの苦労と努力によってできはじめてきました。

また法人としての活動は、何もしていなくても、関係機関への提出書類など事務仕事がたくさんあります。
それらを常にこなすには、専門スタッフが必要でした。

自由を求めて、新しい公立学校を創ろうと動き始めたはずなのに、いつの間にか身動きが取れなくなっていました。
いったんチャラにします。
そして、自分の手で、自分の声で、自分の頭でできる小さなことから再出発していきます。

昨今の学校教育をめぐる「改革」は、こどものためのものではなくなっています。

土曜授業の再開。
これを支持するお利口さんよりも、これに反対するキッズの方が多いでしょう。

教員免許状の10年更新。
これを支持する金持ち教員よりも、これに反対する普通の教員のほうが多いでしょう。

小学校3年生からの英語活動。
そのために、一週間の授業時間が増えて、朝から午後4時頃まで勉強漬けになることを喜ぶこどもがいるとは思えません。

英語と道徳の教科化。
またまた「英語嫌い」を増やし、「道徳観の固定」を強化したら、不登校や校内暴力が吹き荒れた1990年代が再来します。

給与の抑制と退職金の減額。
これを支持する教員はいないと思うので、多くの若者は最初から教員を目指さないようになるでしょう。

体罰の横行。
どこまでいってもトカゲの尻尾きり。

わたしのいまの地平は、ゼロどころか、マイナスにいるようです。まずは、スタートラインに這い上がらなければ。
17年間、多くの方々にお世話になりました。

心よりお礼申し上げます。

ありがとうございました。さようなら。

湘南に新しい公立学校を創り出す会
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